◆真鍮製 レプリカ ◆ 1600年、関ヶ原の戦いに勝利した家康公が指示した最初の小判…慶長小判を始め、幕末最後のメモリアル小判…万延小判に至る【1600年~1868年】の凡そ、268年間の時代の変遷を考察する上で大変重要な小判です。
★宝永小判(ほうえいこばん)とは、宝永7年4月15日(1710年5月13日)に通用開始された一両としての額面を持つ小判。乾字小判(けんじこばん)とも呼ばれまた、宝永小判および宝永一分判を総称して宝永金(ほうえいきん)あるいは乾字金(けんじきん)と呼ぶ。
表面には鏨(たがね)による茣蓙目が刻まれ、上下に桐紋を囲む扇枠、中央上部に「壹」下部に「光次(花押)」の極印、裏面は中央に花押、下部の左端に小判師の験極印、吹所の験極印さらに右上に「乾」字が打たれている。
佐渡の金座で鋳造された「佐」の極印が打たれた佐渡小判が現存するが極めて希少であり、小判師の験極印は「又」、「宝」、吹所の験極印は「神」、「当」に限られる。
元禄金は品位が低く、脆く折れやすいものであったため、良質の慶長金への復帰が望まれたが、金の産出が衰退した中では充分な通貨需要を満たすことができず、小型にすることで金品位を上げることとした。 しかし一両あたりの含有金量は元禄金よりさらに低く、慶長金に対してほぼ半分となり、二分小判と揶揄されるに至った。
◆参考資料◆ 文禄2年(1593年)橋本庄三郎は徳川家康と接見し、文禄4年(1595年)には彫金師の後藤徳乗の名代として江戸に下向した。 出身は美濃国加納城主長井藤左衛門利氏の末裔ともされるが、疑問視されており庄三郎の本姓は山崎との説もある。
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