◆真鍮製 レプリカ◆
1600年、関ヶ原の戦いに勝利した家康公が指示した最初の小判…慶長小判を始め、幕末最後のメモリアル小判…万延小判に至る【1600年~1868年】の凡そ、268年間の時代の変遷を考察する上で大変重要な小判です。
★安政小判(あんせいこばん)とは、安政6年5月25日(1859年6月25日)から鋳造が始まり同年6月1日(1859年6月30日)より通用開始された一両としての額面を持つ小判であり、正字小判(せいじこばん)とも呼ぶ。また安政小判および安政一分判を総称して安政金(あんせいきん)あるいは正字(せいじきん)と呼ぶ。表面には鏨(たがね)による茣蓙目が刻まれ、上下に桐紋を囲む扇枠、中央上部に「壹」下部に「光次(花押)」の極印、裏面は中央に花押、下部の左端に小判師の験極印と吹所の験極印、さらに右上「正」字が打たれている。極印を「政」字とせず「正」字としたのは字画を少なくし発音を合わせたためである。
嘉永6年(1853年)、浦賀沖の黒船来航により幕府は開港を迫られ、安政3年9月(1856年)に下田御用所において日本貨幣と西洋貨幣との交換比率を定めるための交渉が行われた。米国総領事ハリスは金貨、銀貨はそれぞれ同一質量をもって交換すべきで、1ドル銀貨の約1/3の量目(質量)である天保一分銀3枚を持って1ドルに換えるべきと主張した。一方、幕府側は、一分銀は名目貨幣であり、金貨4ドル分の金を含有する本位貨幣である小判の兌換券に相当するものであるため、1ドル=1分であると主張した。結局、米国側に押し切られ、1ドル=3分の交換比率を承諾する事になる。
◆参考資料◆
文禄2年(1593年)橋本庄三郎は徳川家康と接見し、文禄4年(1595年)には彫金師の後藤徳乗の名代として江戸に下向した。出身は美濃国加納城主長井藤左衛門利氏の末裔ともされるが、疑問視されており庄三郎の本姓は山崎との説もある。
◆ご留意◆
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