商品詳細 ■藤原伊織『雪が降る』 文庫巻末解説 解説 黒川 博行 藤原伊織をわたしは〝イオリン〟と呼ぶ。イオリンはわたしよりひとつ年上だが、わたしのことを〝おっちゃん〟と呼ぶ。イオリンの本名は利一といい、これをアルファベットで書いて文字を並べかえると〝IORI〟になるのだと、本人はいう。〝RIICHI〟には〝O〟がないやんけ、と思うのだが、わたしも五十をすぎたオトナだから、あえて反論はしない。で、この解説では藤原伊織をイオリンと書くことにする。 わたしがイオリンと知りあったのは、彼が『テロリストのパラソル』で江戸川乱歩賞と直木賞をダブル受賞したあとだった。イオリンがなにかのエッセイに、「乱歩賞という満貫を自摸ったら裏ドラがのって、直木賞という倍満になった」というふうに書いていたのを読んで、これはそうとうの麻雀好きやな、と、わたしは手ぐすねをひき、担当編集者を通して対戦を申し込んだのである。 イオリンとの初対決は東京紀尾井町の雀荘だった。これは自慢だが、わたしは麻雀が強いので、直木賞大尽のイオリンから少なからぬ小遣いを召し上げようと考えていた。編集者ふたりを交えた丁々発止の勝負は翌日の昼前まで闘われたが、結果は憶えていない。都合のわるいことはすぐに忘れてしまうのが、わたしの数すくない美点である。 わたしは東京へ行くたびにイオリンと卓をかこむようになった。イオリンの麻雀は口数が多く、沈めば泣きが入り、浮けば鼻唄が出る。形勢が分かりやすくて明るい麻雀だから、とても愉しい時間を共有できる。イオリンは大阪人らしく、ものごとに格好をつけることがなく、いつも〝笑ってやってください〟の自虐的サービス精神にあふれている。こういうカラッとした隙だらけの雀士はそう多くいるものではない。 イオリンは直木賞受賞でツキをつかい果たしたのか、当時はめちゃくちゃ麻雀が弱かった。わたしや白川道はここをチャンスとばかりにイオリンを麻雀に誘い込み、身ぐるみいだ上にケツの毛までむしりとった。イオリンは編集者のあいだで〝F資金〟といわれるまでツキの坂をころがり落ちたが、半年ほどで厄落しが終了するや、ひとが変わったように反攻に転じた。わたしとイオリンとの勝負はほぼイーブンになり、F資金と呼ばれたころのかわいさは消え失せてしまった。イオリンは基本的に麻雀が巧くて強いのである。 ところで麻雀に限らず、競輪競馬やカジノなど、ギャンブルはそのひとの性を浮き彫りにするとわたしは考えている。む、打つ、買う、のうち、打つに傾いている人間は基本的に〝楽して金を稼ぎたい〟〝遊んで金儲けしたい〟と、セコい望みをもっていて、ここに人間的な弱みと隙がある。なんというか、わたしはそういう隙だらけの人間が大好きで、イオリンなんか、その典型だと感じるのである。むろんイオリンはまっとうな常識人だからコアの部分は強固だが、それをつつむもろもろのものは融通無碍でとても柔らかい。 イオリンとブンガクの話など、めったにしないが、 「イオリンの小説の主人公て、みんなストイックやね」そんなことをいったことがある。 「本人そうじゃないからね、かくありたいという憧れかな」 「あのストイックさが小説に一本、芯を通してる。おれなんか安請けあい友の会で、いつも適当に話を合わしてるけど、あとでえらいめにあう」 「いや、おれもこの範囲でやろうと思ったときにブレーキ外れるケースが多いよね」 確かに、イオリンはブレーキがよく外れる。彼は若いころの飲みすぎのせいで、ビールを四、五本飲むと、ぱったり電池が切れたように眠り込んでしまう。麻雀の途中でふいに動かなくなり、「ほら、イオリンの番やで」揺り起こすと、よろよろ牌をツモって不要牌を切り、また動かなくなる。麻雀はそこでお開きになり、雑巾と化したイオリンを雀荘に捨てて帰るわけにはいかないから、メンバーの誰かがイオリンを背負ってタクシーに乗せるはめになる。わたしも一度、地階の雀荘からイオリンを担ぎ出したことがあるが、階段の途中で腰くだけになり、向こう脛をいやというほど打った。なにしろ、人事不省のコンニャクのような人間はやたらに重いのだ。「いまどき、こんなすごい酔い方をするひとは珍しいね」タクシーの運転手がしみじみそういったのを憶えている。 イオリンと親しくなって、共通するところがたくさんあると分かった。彼は大阪生まれで市内の高津高校という進学校に入り、美術部に所属して油絵を描いていた。コンクールに何度も入賞するほどの腕だったという。当時のクラブ顧問のS先生はわたしの羽曳野市の家のすぐ近くに住んでいて、いまはわたしのよめはんといっしょに毎週、デッサン会をしている。わたしとよめはんは京都芸大の出身だが、高津高校からも多くの学生が入学し、イオリンを知っている連中も何人かいた。イオリンは頭がよすぎたために芸大には行けず、東大に入って学生運動と麻雀にのめりこんだらしい。ちなみにわたしは、頭の形はいいのだが中身がともなわず、芸大にしか行けなくて競馬と麻雀にのめりこんだ。 イオリンがこんなことをいったことがある。 「美術と小説の関係って共通点があるでしょ。素材があって、構成があって、想像力があって。思うに、構成というのは、美術とすごい似たようなところがあると思わない?」 「うん。そう思う。『テロリストのパラソル』や『ひまわりの祝祭』にもそれを感じる。イオリンの小説は、もうちょっと説明するとこを刈り込んでる。これはたぶん、もっと長い文章であったはずやのに、とてもたくさん削ってるのが分かる。贅肉をぎりぎりのとこまで削ぎ落とすことで作品に緊迫感が生じるし、スピード感も増す。イオリンの構成とストーリー展開は、とにかく巧いわ」 これは掛け値なしの感想である。『てのひらの闇』もそうだが、同業の作家として思わず膝を打つような場面がいっぱいある。なんというか、イオリンの語り口にはエンターテインメントの枠内におさまりきらない日本的な情感が色濃く漂っている。たとえばAという人物を表現しようとするとき、イオリンは決して正面からAの心理に分け入るような無粋なことはしない。Aのなにげない動作や台詞、あるいはAをかこむBやCという人物を丹念に描写することで、Aの人となりを浮き立たせようとする。主人公から端役まで濃やかな目配りをした人間のからみあいが、イオリンのいう〝美術と似た構成〟なのだろうと思う。 このあたりで『雪が降る』の解説に入る。 『台風』──ハードボイルドでもサスペンスでも、本格ミステリーでも純文学でもない。〝上質の小品〟である。底に、人生が通奏低音として流れている。日常からほんのわずかな狂気を切りとった巧さ。センセーショナルな殺人未遂から一転して主人公の中学時代に飛び、少年の成長を描く。最後の三行が印象深い。 わたしは高校生のころ、三日にあげず玉突き屋に通っていた。種目は四つ玉。好きこそものの上手なれ、で、あのころは五十ほど突けた。 『雪が降る』──企業小説といえるだろう。人間模様にイオリンが勤めている広告代理店の知識が生かされている。小さな起伏に大きなドラマがある。 陽子の残した未発信のメール。〈志村さん。このまえは、あなたと最初からいっしょに「ランニング・オン・エンプティー」を見たかった。そしてきょう、もし会えれば最高のセックスをしたい。してみたい。したかった。してください。これから私は横浜にいきます〉 ここがいい。めちゃくちゃいい。 ビデオショップでリバー・フェニックスの『ランニング・オン・エンプティー』をレンタルしよう。
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